音楽学から世界をウォッチするブログ

楽理科で音楽学を学んでいます。音楽に偏りまくった脳みそ、感性で前のめりに世界の勉強をします!マイブームは建築です!よろしくお願いします!

炒飯とオムライス

 

今月頭にチャイコフスキー交響曲5番とモーツァルト ピアノ協奏曲23番の楽曲解説を書かせていただきましたが、書きながら、指揮者でも作曲者でもない自分が作品に対して形容詞を付けたり、「〜のような雰囲気で第一楽章の幕は閉じられる」などとウソ八百ならぬ主観八百をあたかも事実のように言及することへの恐ろしさを感じました。

 

しかし同時にこんなもの何の役に立つのだろう?とも思っていました。誰が読むんだろう?誰が読みたがるんだろう?

 

ベルリオーズ幻想交響曲のように、作曲家自身によって解説されたプログラムノートを必ず配布するよう要請されている作品には勿論「楽曲解説」の必要性は十分ありますが、他の作品の場合、演奏を聴きに来た聴衆に、他人が書いた文字がギラギラの「楽曲解説」を渡すとは…

 

という話を、友人と居酒屋で交わしていました。大いに盛り上がって、もう、いっそ、文字はやめてグラフにしよう。エクスタシー度合いのグラフ。つまり、これから音楽がどういう風に展開するかグラフで分かる!   または、絵画をプログラムノートにのせる。言葉でズバリこういう曲だと提示されるより解釈の余地があって良い。などなど…

 

私は炒飯を頼み、友人はオムライスを頼みました。程なくして定員が炒飯を2つの取り皿と一緒に持ってきました。話に集中していたこともあり、私達は迷わずそれぞれの取り皿に炒飯を盛り、2人で炒飯を食べながら議論を続けました。

 

しばらくしてオムライスがきました。こちらも取り皿付きです。私たちは炒飯と同じく取り皿に取り分け、今度はオムライスを食べ始めました。

 

「あれ、私達ご飯ものを2つも頼むなんてバカだね。ほら、このかた焼きそばとか麺類を頼めばよかったね。」とわたしは言いました。

 

しかし実際、私達はご飯ものを2つ頼んだつもりはありませんでした。それぞれに、1つずつ頼んだのです。つまり注文した時は2人でシェアするつもりは無く、各々に頼んだメニューを食べるつもりだったのです。

その予定が取り皿の介入により狂ってしまいました。この時私たちが待ち望み、お金を払って頼んだ「主役」は間違いなく炒飯とオムライスでしたが、脇役とも言えない、ステージにも上がっていない取り皿の介入によって、私たちの炒飯とオムライスの楽しみ方はガラリと変わってしまったのです。

 

これが演奏会だとしたらどうでしょう。聴きに来た目当ての作品が「主役」ではありますが、その「主役」をさぁ楽しむぞ、という直前に楽曲解説が配られます。

 

私達は楽曲解説によって作品の楽しみ方を無意識のうちに制限されたり、変えられているかもしれません。

 

逆を言えば、楽曲解説は個人の作品の楽しみ方を誘導させる力があるかもしれません。たとえ指揮者が暖かいイメージで演奏しようと意図していても、楽曲解説の中で「冷たい楽章である」と書いてあれば、「なるほどこの楽章は冷たい雰囲気の楽章なんだな」という先入観を持って聴衆は聴いてしまうかもしれません。(これは少々極端な例ですが)

 

結論としては、「炒飯とオムライス」は「取り皿」を野放しにしてはいけないと思いました。双方が同意の上で相応しい「取り皿」の登場が必要です。