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音楽学から世界をウォッチするブログ

音楽に偏りまくった脳みそ、感性で前のめりに世界の勉強をします!マイブームは建築です!よろしくお願いします!

美術家と音楽家

時間の流れが違いました

 

音楽には終止線があります

美術にはありません

 

音楽は時間外に残りません

美術は残ります

 

音楽は夜中練習できません

美術はおかまいなしです

 

分かり合えないでしょうか

 

今日もダリ展に行きます

 

音楽と人間

例えばこう、時間をおりたためたり

自由に切貼りできる世界があれば

その世界特有の音楽の形がありそうだ

 

わたしはいま

人間の世界で作られた音楽を見ている

 

でもこの音楽に

人間らしさを感じたことがあるかなぁ

 

紙の上に作り上げられた

綺麗な綺麗な音楽

 

まず、人間が何なのか分からない

人間の私が考える、という実験条件すら信用できない要素なんだろうけど

 

人間が分からないのに

芸術を勉強しようなんて浅はかなことをしている自分

 

人間ってなんだろうー

 

 

 

 

 

 

雑記

最近知ったことは、実験的に無理やり手を伸ばす必要なんて無くて、自然と望んだような形で冒険と学びのチャンスはやってくるということです。

 

それと、喋るとき言葉を見つけるのが苦手なことに悩んでいたんですが、たとえ面と向かって喋っているときでも表現の手段というのは言葉だけではない、ということを教えて貰いました。

 

必要以上喋らなくていいよと言われて楽になりました。

 

もうそろそろで、人間関係について、影響についての学び期間が終えられそうです。これからも社会で生きていれば続く悩みだとは思いますが、本当にこの2ヶ月は怒涛だった。もう夜明けな気がします。がんばろう

 

 

 

炒飯とオムライス

 

今月頭にチャイコフスキー交響曲5番とモーツァルト ピアノ協奏曲23番の楽曲解説を書かせていただきましたが、書きながら、指揮者でも作曲者でもない自分が作品に対して形容詞を付けたり、「〜のような雰囲気で第一楽章の幕は閉じられる」などとウソ八百ならぬ主観八百をあたかも事実のように言及することへの恐ろしさを感じました。

 

しかし同時にこんなもの何の役に立つのだろう?とも思っていました。誰が読むんだろう?誰が読みたがるんだろう?

 

ベルリオーズ幻想交響曲のように、作曲家自身によって解説されたプログラムノートを必ず配布するよう要請されている作品には勿論「楽曲解説」の必要性は十分ありますが、他の作品の場合、演奏を聴きに来た聴衆に、他人が書いた文字がギラギラの「楽曲解説」を渡すとは…

 

という話を、友人と居酒屋で交わしていました。大いに盛り上がって、もう、いっそ、文字はやめてグラフにしよう。エクスタシー度合いのグラフ。つまり、これから音楽がどういう風に展開するかグラフで分かる!   または、絵画をプログラムノートにのせる。言葉でズバリこういう曲だと提示されるより解釈の余地があって良い。などなど…

 

私は炒飯を頼み、友人はオムライスを頼みました。程なくして定員が炒飯を2つの取り皿と一緒に持ってきました。話に集中していたこともあり、私達は迷わずそれぞれの取り皿に炒飯を盛り、2人で炒飯を食べながら議論を続けました。

 

しばらくしてオムライスがきました。こちらも取り皿付きです。私たちは炒飯と同じく取り皿に取り分け、今度はオムライスを食べ始めました。

 

「あれ、私達ご飯ものを2つも頼むなんてバカだね。ほら、このかた焼きそばとか麺類を頼めばよかったね。」とわたしは言いました。

 

しかし実際、私達はご飯ものを2つ頼んだつもりはありませんでした。それぞれに、1つずつ頼んだのです。つまり注文した時は2人でシェアするつもりは無く、各々に頼んだメニューを食べるつもりだったのです。

その予定が取り皿の介入により狂ってしまいました。この時私たちが待ち望み、お金を払って頼んだ「主役」は間違いなく炒飯とオムライスでしたが、脇役とも言えない、ステージにも上がっていない取り皿の介入によって、私たちの炒飯とオムライスの楽しみ方はガラリと変わってしまったのです。

 

これが演奏会だとしたらどうでしょう。聴きに来た目当ての作品が「主役」ではありますが、その「主役」をさぁ楽しむぞ、という直前に楽曲解説が配られます。

 

私達は楽曲解説によって作品の楽しみ方を無意識のうちに制限されたり、変えられているかもしれません。

 

逆を言えば、楽曲解説は個人の作品の楽しみ方を誘導させる力があるかもしれません。たとえ指揮者が暖かいイメージで演奏しようと意図していても、楽曲解説の中で「冷たい楽章である」と書いてあれば、「なるほどこの楽章は冷たい雰囲気の楽章なんだな」という先入観を持って聴衆は聴いてしまうかもしれません。(これは少々極端な例ですが)

 

結論としては、「炒飯とオムライス」は「取り皿」を野放しにしてはいけないと思いました。双方が同意の上で相応しい「取り皿」の登場が必要です。

 

 

 

 

 

ミノトール

今日の記事の題名はある雑誌の題名である。
 
この雑誌のエッセイの中でサルバドール・ダリは霊と妖怪の形態学を比較した。
 
ああああ面白い!!!!!!!
 
 
私はお気に入りのものができるとしばらくはそればかり食べてしまう。
今は『濃密ギリシヤヨーグルト パルテノ』にしか興味がなく、どんなに高級なミルクレープを出されても「このお値段出すならパルテノを3つ買った方が良いのにな」などと思ってしまう。(ごめんなさい。)夏休みは茄子と丸亀製麺のうどんばかり食べていた。
そんなワガママで熱し易く冷め易い私は3週間前にサルバドール・ダリに出会ってしまった。六本木の新国立美術館だ。それ以後私の生活にはダリがいる。そこかしこにいる。
 
私は不老不死とか変若水とかには興味がない。
しかしダリが今も生きていたら、、、と思わずにはいられなかった。ダリは広島・長崎への原爆投下をきっかけに原子力へ関心と理解を持ち、それをテーマにした作品を多く残した。ダリが今も生きていたら福島第一原発についてどんな作品を残しただろうか、、、
 
 
ソルフェージュの先生が後期の初回の授業で生徒一人一人に「好きな作曲家は誰」と尋ねた。私は「作曲家の人生や性格と、作品を何処まで結びつけて考えて良いのか分からないです。好きな人はいます。好きな曲もあります。でも好きな作曲家はわかりません」と答えた。

 

作品の中に作曲家が彼自身をどの程度見て欲しいと思っていたのか分からないし、もしかしたら自身と作品は別のものとして鑑賞して欲しいと思っているかもしれないじゃないか。

 

ソルフェージュの先生は「若いね、新鮮だね」と笑った。「僕ぐらいの歳になると作品自体がその人物そのまんまにしか思えないよ」

 

ヘェ〜若いって恥ずかしいことだらけだな〜と思った。先生の言葉は素直に受け止められた。でもやっぱり好きな作曲家を問われたら私は今も困る。

 

 

しかし今、「好きな画家は?」と聞かれたら迷わず答えられる。

 

ダリダリダリ!!!

 

彼の挑戦的で、完璧を追い求める姿が好きだ。科学的、数学的思想も好きだ。新しいものを生み出そうとする溢れんばかりのエネルギーが好きだ。そして、そんな彼の思想がそのまま筆を運ばせたような作品が好きだ。

 

ダリに関して私は安易に作者と作品を結びつけることが出来る。これはどうしてなのだろうか。理由が分からない。(誰か教えてください)

もしかしたらこうかな、という一案は、美術館のとった展示形式によって、彼の作品と彼の生涯とを同時に知ることができたからかな、と思っている。

 

もしそうならば、音楽の方では、演奏会をやるにあたって作曲家の情報があまりにも置いてけぼりにされ過ぎているのでは?という考えも浮かんだ。(これは最近悩んでいる楽曲解説への疑問にも繋がる)

 

今日の記事は話題が行ったり来たりして纏まりがない。ダリの、多重イメージを駆使して超現実的世界を描く姿に影響を受けているからである。しかし私はダリではないので完璧には仕上げられず、このような単なる支離滅裂な文章になっている。ごめんなさい!

 

はい、締め方も分かりません!

 

おわり

f:id:musicology0503:20161106175242j:image

* ダリ展の画集

 

 

 

 

 

やったー!

 

昨日通知が来て知ったのですが

 

なんと!

今月のアクセス数が100を超えたそうです!

やったー!ありがとうございます!

 

 

初めてそのような通知が来てびっくりしました

単純計算すると、1日5人のアクセスですか?毎日SMAPのメンバーがみんなアクセスしてくれてるということ…?もしくはロシア5人組がみんなアクセスしてくれてるの…?笑

 

たとえ1人でも、見てくれている人がいると思うと緊張しますね!

 

 拙い文章なのは重々承知なので、ちょっと恥ずかしさもあるのですが、どんどん更新して良い記事が書けるようになりたいです!

 

これからも頑張ります!

 

また見に来てください。アドバイスください。

よろしくお願いします!