読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

音楽学から世界をウォッチするブログ

音楽に偏りまくった脳みそ、感性で前のめりに世界の勉強をします!マイブームは建築です!よろしくお願いします!

ムカデ人間

雑記

 文理融合って素晴らしいと思う。

 

音楽と美術を繋げてみたいとか

音楽と何かを繋げたい欲が強い。

『繋げる』とか『融合』から生まれるものは

どんな価値を持つんだろうと改めて考えたい

 

 

というのも藝大に来てから『音楽ってなんだろう』という疑問を日々感じずにはいられない。音大にいた頃には考えたことすらなかった。美術学部がある。音楽学部がある。美術という他者の存在を知って初めて音楽という自己(の専門領域)に疑問を抱く。この、他者を設定することで自己の気付きを呼び込む方程式は、以前から知ってはいたが、気付きの瞬間が訪れた時はいつだって「自分て何も考えちゃいなかったんだな」とハッとするし、今、何もかもを生まれて初めて見たような気がしてきて走り回りたくなる。

 

今日はロボットの授業を受けた。

ロボットを作るとは、ただの機械を人間に仕立てること。ロボットという他者の存在を知って初めて人間という自己に疑問を抱いた。「ロボットはどこまで人間に近づけるんですか?」という質問に対してある技術者は「あなたが人間の定理を提示してくれるなら、それを満たすための技術向上は出来ます。しかし人間の定理とはなんですか」と答えたらしい。人間の定理とは。人間の定理とは。考えたことも無かったなぁ

 

繋げること、融合を図ることで、新たな視点が生まれる。違う角度からの視点、というよりはなんだろう、新しい単位の定規を当ててみるって感じだ。やっぱり繋げることは素晴らしい!

 

ムカデ人間』という映画がある。

カルトムービーでかなりグロテスクらしい。人間を複数人繋げてみたい、という願望を持つハイター博士が「ムカデ人間」を作るストーリーだ。

その博士みたいだ、という皮肉を込めて友人は私をハイター博士と呼びたがった。もちろんやめてもらった。

 

でもつ・な・げ・て・み・た・い。f:id:musicology0503:20161006230236j:image

 

作家、作曲者と死後(上)

恥の多い生涯を送って来ました。

という一文から太宰治の『人間失格』は始まる。

 

この作品は雑誌『展望』で連載されていたが、連載最終回の掲載直前の6月13日深夜に太宰が自殺したことから、本作は「遺書」のような小説と考えられてきた。
しかし1998年5月23日に遺族が発見したB5版200字詰めで157枚におよぶ草稿を公開したことがこれまでの定説を覆すきっかけとなった。これら草稿では言葉一つ一つが何度も推敲されており、内容を練りに練りフィクションとして創造した苦労の跡が随所に伺える。単なるフィクションなのか、自伝的な小説なのか。太宰の死により、その真偽については不明な部分が多い。

 

私は、この作品を時々読みたくなる。この作品が好きだ、とか昨日久々に読んじゃった、とか誰かに言えるような読み方ではなく、自分の欠点や罪を本になすり付けるようにこそこそ読んでは、気が済んだところで本を閉じる。初めて読んだのは確か中学生の頃で、当時は有名な本だから読んでおこう、くらいの気持ちで目を通した程度だったので、本の主人公に対しても『昔にはこんなだらしない人もいたのか』と思うくらいだった。

しかし、私が浪人していた18歳の頃(自宅浪人のため誰にも会う機会がないので、せめて文字越しに他人を感じようと本を読みまくっていた)日本文学でも読もう、と思ってもう一度この作品を手に取った。すると大当たり!といった感じに夢中になってしまった。『自分はその時、生まれて初めて、ほんものの都会の与太者を見たのでした。それは、自分と形は違っていても、やはり、この世の人間の営みから完全に遊離してしまって、戸惑いしている点においてだけは、確かに同類なのでした。』という主人公の、生業を持たない、社会に属していないような不安定な存在が時代が違えども確かに生きていたことに大変安心したのだ。

つまり、この作品は私にとって、太宰の自伝であるからこそ意味があった。フィクションではなく、ノンフィクションであるからこそ、ささやかな私の免罪符であったのだ。これを読んでからは、こんなに罪深い人間も私一人ではないんだな、という少し図々しい気持ちで荻窪行きの切符を買えるようになった。(浪人中は学生でも会社員でもないので定期券すら持てない分際だった。)そう、私は冒頭に記した「『人間失格』フィクション説」の存在を知らなかったため、定説通り太宰の自伝である体で読み進めていたのだ。

 

クラシック音楽にもこのような、時代による解釈の違い、研究の成果による解釈の変化はつきものだ。

作曲家、作家と同じ時代を生きている人にしか味わえない解釈はもちろん存在するであろうし、なるべくその新鮮な生の作品の姿を知るべく私たちは研究をする。しかし、その時代の人々が知りえなかったことすら私たちが発見してしまうことがある。これは、この研究からもたらされる解釈とは、果たして、’本物”なのだろうか。

 

例えば、これは「音楽新潮」昭和9年(1934年)3月号に掲載されたチャイコフスキー(1840-1893)の日記の一部でモーツァルトベートーヴェンに対する気持ちが書かれていた。

1886年9月20日

私の死後、私自身の音楽的興味と好みとが解ることは、恐らく多少の興味を惹くことと思う。――私はそうしたことを、会話の中で論ずることをしないのであるから。私は系統的な表に従って述べていこう。各世紀の偉大な音楽家と、同時に私と同時代の作曲者に言及してみる。

 

 

続く

 

音感覚論と親子

音楽と世界

親子を見るとぎょっとすることがある。

 

一対の組み合わせでも、似ているようで実は何の繋がりもない方が簡潔で腑に落ちることがある。本当に繋がっていて『だから似ているんですよ』と事実に太鼓判を押されてしまうと逆に疑いたくなる。

 

ただの'お友達同士”であろう小学生がお揃いの学校指定の帽子をかぶり、膝小僧の高さまで二人で揃えて下校する風景を見てあぁこの子達は似ているな、と思う。逆に、向こうから歩いてくる親子を見るとほんとにこの母親からこんな眉毛の息子が産まれるかな、と思う。

 

 

ヘルマン・フォン・ヘルムホルツ著『音感覚論』の序論の『音楽家は、哲学者や物理学者と同様に、人間の魂は我々の知らないやり方で音の振動数の関係を算出することができ、単純で容易に見せる関係がある場合に喜びを感じるのだという考えに大抵納得した。』

という一節を思い出した。

 

だから、なんだというまとめの言葉が出てこないのだが…

 

 

宗教学

音楽と世界

 

こんばんは!

 

ご無沙汰しています。忙しくてこのブログでやりたいことが一つも出来ていなかったのですが、今日からまた頑張りたいと思います(^ω^)

 

このブログは音楽の知識や味わいを音楽だけの範囲に留めず、世界中を知り尽くす軸にしていこう!というブログですが…

 

いま温めているのは、「建築のネットワーク工程表✖️作曲」「日本文学的『非現実』✖️交響詩」などです(*^o^*)

 

しかしなかなか難しいですね…

当たり前ですがアウトプットしようとして初めてインプットの瞬間の自分の甘さに気づきます😅

 

 

さて、今日『宗教学』の授業を終えたのですが、『宗教学』って一口で言っても本当に広くて深いですね…😂 政治、郷土、国家、遺跡などなど切り口を挙げればキリがないです。授業の中で触れた事柄もほんの一部に過ぎないでしょうし、勉学をすることの果てしなさをまた痛感しました😭

 

しかし、宗教が人々の生活、人生そのものに深く関係しているからこそこのように広い学問になるんだなと思いました。学問とは人間の世界の中で出来たものですから、より人間に必要不可欠なものほど多くの学問に関与していくのかなと今日ほんのりと思いました。

 

そういう意味では、音楽が人間にとって必要不可欠なものとして歴史を刻んできたが故、音楽が多くの学問や、人間世界の多くの事柄に関係しているんだなぁと気づきました😊

 

宗教学、難しかったけど、これが大きな収穫です(^ ^)

 

 

もっともっとたくさん勉強します‼︎

ラヴェルとの夏を終えて

雑記

こうやって終わるんだ、と思ったら涙が溢れてきた。
 
オール・ラヴェル・プログラムの企画にスタッフとして携わっていたが、企画者の熱意と指揮者の技量に圧倒される毎日を過ごし、この企画の準備の中で大変成長した気がする。自分が何を習得したか、とかは別として、普段からエネルギーのある方がエネルギーをより意識的にかけて創り上げようとする現場のプールに浸り、体の芯は変わらないとしろ、こう、『最大限プロい人』にはなれないにせよ、皮膚は影響を受けだいぶ指先がふやけた。
 
つまり、すごい人がすごいことをやろうとしてる姿は到底真似できないし、彼らにはなれないのだが、甚大な影響を受け、自分の中の『すごい』の指標のレベルはもう、下げようがない。これはもう戻れない。
 
当日のわたしの仕事はステマネとして舞台転換するという極々シンプル(まぁ言っちゃえば誰でも出来る)仕事であったが、今思えばツッコミを入れたいくらい本気で舞台転換した。松岡修造氏並みに本気だったのだ。1音も出さないくせに今日のこの本番を成功させるのは私たち舞台転換班だ!と本気で思っていた(笑ってくれ)。
 
 
そんなにアツくなってしまったのは企画者の影響と、奏者との想いの齟齬にある。
 
企画側のストレートでわがままな程完成させられた『やりたいこと』の想いの強さに影響され思わずアツくなった。しかし彼らの思いが伝わらなかった奏者もいる。私はその両者の想いの齟齬を見てやきもきしたし、このプログラムパンフレットにどれだけの想いと労力が注がれているかをも知っていたので雑な取り扱いにはそれなりにイライラした。こんな窮屈な思いが緊張感にも油を注ぎ、つい舞台転換に力が入ってしまったのだ。

 

マ・メール・ロワの終曲の、音のない終止線が響いた時、 「ああ終わった」と思った。泣きそうだった。演奏がどうとかじゃなく、過程を見すぎたプロジェクトの終わった瞬間も見すぎてしまって、目頭が熱くなった。

 

今年の夏、私は「作ること」を学んだ気がする。四六時中考えていたラヴェルという人物についても気が楽になり、執着のなくなった元彼のように爽やかだ。「作ること」の想いと関わる人と施行する人の、それぞれの細かい違いが、私の中でフォルダとして残った。

 

今は燃え尽きていて、旬を過ぎかけたスイカを食べながら適当にロシアものの交響曲でも聞いてああ冬のシベリアよ、などと言いたい。適当に、過ごしたい。本当に、濃い、ラヴェルの夏だった。

これから書こうとする『ラヴェルについて』のスケッチのスケッチ

雑記

朝が来た
それとも夜が終わったのか

時の蛇腹に身を任せる
小説を、書くらしい
例えば電車に乗りながらの風景を楽しむのと雲になって線路の描く弧を楽しむのとラヴェルはどちらだろうか。例えばである、例えばだ。

ラヴェルについてどう思うか。沢山の人に聞いてまわった。みんなラヴェルが好きだ。わたしは、好きでは無い。ラヴェルがまだちょっと、分からない。

あったことも無い人を好きだとか嫌いだとか言えるのはその人の作品やら言葉やら周囲の記憶が残っている故である。時々、自分のことすら分からない。分かったとしてもそれは自分の持つ価値観と自分の持つ言葉で構成されている限り、信ぴょう性など感じられるだろうか?かといって他の人からのイメージは全て『わたし』なのか。

音楽家である前に人としてみる。
それはとても難しい。

しかし音楽は、どうだろう。
音楽を判断するとき、私たちはどう聞いているのだろう。音楽の持つ要素というのは人間の持つ細胞より少ないはずだ。しかし、しかし…

 

 

 

東野圭吾白夜行が好きだ。

 

2人が一人称になることは一度も無い。彼らの痕跡で、周囲との関わりで、彼らの像が作られる。浮き彫りになる。

建築みたいだ。建築は、柱を立てていると、壁を立てていると、家という空間が作られる。浮き彫りになる。

 

作品とは、痕跡か。否か。

うーん、グレーかな!

 

 

 

 

はじめまして!

音楽と世界

 

 

某藝術大学で音楽学を専攻しています(^∇^)

 

音楽学を勉強するようになってから他の学問や身の回りの事柄がトロピカル楽しいので、ブログにしようと思いました。

 

目標としては、発信していけるブログにしたいですが、まずは生活や思考をここに貯めていきたいと思います。

 

よろしくお願いします\(^o^)/