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音楽学から世界をウォッチするブログ

音楽に偏りまくった脳みそ、感性で前のめりに世界の勉強をします!マイブームは建築です!よろしくお願いします!

お誕生日

四次元ポケットがあればなんでも手に入る気がするみたいに、

ショートスリーパーだったら何でもできそうな気がしてくる。

 

結局自分の周りにあるシガラミは全て時間を根拠にするものなんじゃないかと思えてくる。どう思いますか?

 

年をとる時『あら〜いやだわ〜また年取っちゃって〜』と言える方々は私から見たらだいぶレベルの高い優秀な人々で、自分は過ごした年月分の収穫や成果を出せていないから年を重ねることすら許されていない気がする。この子供っぽい容姿はその呪いだろう。365日経てば年を重ねられるのは当たり前のことじゃなくて、その人が真っ当に、年相応の顔で生きる努力を365日積み重ねてきたある種の『〇〇級修了証書』のように思える。

 

だから、お誕生日おめでとう。

 

啓蒙思想:主体(主観)と客体(客観)

啓蒙思想:主体(主観)と客体(客観)について授業で考えたのでもっと考えてみる。

 

用いたテクストは

ルソー『言語起源論』第20章

ルソー『社会契約論』第一編、第1〜8章

デカルト方法序説』第4部、第5部

テオドール・アドルノ『主観と客観について』

 

 

 

ルソーは「音楽そして楽曲の根源にあるのは旋律である」と主張し、J. Ph. ラモーが「旋律は和声から生まれる」と主張して、双方は対立した。しかしこの18世紀の、旋律と和声の優位性をめぐるこの問題は、音楽の根源にあるのが「旋律と和声」の相互の関係にあると考えることで、あっさりと解決してしまう。さらにこの解決が、和声的区分(カデンツ)と旋律の関係を論じる「フレーズ分析」を誕生させた。

今回の課題テクストにおける共通の特徴は、一見、相反すると思われる二項が並べられる中で、相互の関係性から生じる現象や、はたまた二項自体が補完関係になっているという気づきが述べられることであった。

ルターの宗教改革に端を発する宗教戦争が、キリスト教を決定的に分断し、キリスト教が唯一絶対の真理であるという中世的な世界観に対して根本的な疑問を投げかけることになった。そこで生まれた共通了解の原理の探求から、デカルトは神という今までの大きな指標とは別に、人間の理性を設定し、それを元に共通了解に達する方法を打ち立てる。

いよいよ啓蒙時代に移り、神と神の元の人間という関係の他に、皆それぞれに自由であるはずの人間社会の中で強者と弱者、支配と被支配という関係が前提とされる。しかし社会契約を結ぶことで、私たちはそれぞれの自然的自由を奪い、力で何かを獲得できる権利を相互に制限する。それと同時に、各人の能力差を認めつつ、市民的自由と所有権を保証する、とルソーは論じる。

なお、近代哲学の主な二つの柱となる認識論と社会哲学における認識論は、デカルトにより打ち立てられたが、その根本の問題とする「どうやって主観は客観を認識しているのか。」「主観の認識が客観に一致していると言える根拠はどこにあるのか」をアドルノは再度考察しているといえる。

音楽にも神への捧げ物というこれまでの唯一的な目的が薄れたことで音楽そのものや音楽への価値観が多様になり、優位性をめぐる問題までもが現れるようになった。そして社会的、思想的事項がそうであったと同じように、多様性ゆえの対立が生まれ、対立ゆえの補完、相互依存の関係が生じ、さらにそこに真理や根元があるとみなす考えが成立されたのであろう。

 

踏み込めてはいるんだろうけど、自分でもイライラする稚拙さなのでアドバイス是非是非ください、、、

 

 

 

遡る行為

 

 『たとえ気まぐれに今日までの行動を選んできたとしても、自分を辿ってごらん。辿ってみればどうしてここにいるか分かる。辿ってみれば自分のやりたいことが見える。』と教えてくれた。

 

どんなに自分が世界や西洋を知らなくても、自分が何を知らないかばかりを確かめるのではなく、自分が辿ってきた道の中に何があったか、をもっとよく見るべきだ。自分が社会的には何者であるか、ではなく自分が本当に見てきたものは何なのか。自分が今まで辿ってきたこの道には何があったのか。

 

『前』というのは未来という意味ではない。

新たな出会いを求めたり新たな環境に身を置くことが『前に進む』という意味ではないのではない。

 

自分を進めるために過去を辿る。

研究を進めるために過去を辿る。

 

 

覚えておきたい発見なので書いた。おわり。

ただの日記

日記なんてつけてなにが面白いんだろうとか思いながら書いてみる。

 

なんかすっごい疲れちゃって脳みそにモヤがかかってる気がするんだけど、金子さんが空気中のモヤとかチリは『気』だってカンボジアで習ったと言っていたので悪い気はしない。池や草むらに集り始めた羽のある虫の集合も『気』じゃん。と思った。

 

友達がいないから書いてるみたいだよね。友達はいると思う。でも、どうして誰もが一度は「友達いないアピール」をしてしまうのか。芸か。

 

この世は目に見えないものの方が多くて、目に見えるものはうんと少ないんじゃないかなと思う。パソコンいじっていて黒字と白背景が逆転してしまった時そう強く思う。

 

コンビニでみうらじゅんの連載を読んで帰りましょう。

 

今日はおわり

 

 

 

ただの日記

毎日毎日僕らは鉄板の上で焼かれて嫌になっちゃうな

 

っていうツイッタラーの呟きみたいなのが歌詞になるのか、と思ったらなんだ世界ってそんなもんかと思う通学タイム

 

そう言えば昨日の講演でチームラボ代表は一度も社会という言葉を使わなかった。世界という言葉は何度も出していた。私は社会に出るやる気がない。こんな22歳はやばいと思う。でも依然としてやはり、社会に出たくない。チームラボ代表が言ってた世界っていうのはabroadって意味だと思うけど、自分の身体以外が全て社会に思える時も世界に思える時もある。デジタルアートで自分とその他との境界を無くしたいって言っていたなぁ。私は、人って結局はそれぞれの人生を一人で歩むものだと思っている。どんなに小さい頃からオーケストラに入って団結★一丸★ハーモニー★みたいな経験していてもそう思う。こんな考えを捨てたい。飽きた。

 

SNSで自撮り写真を上げる女の子が割と好き。実際仲良くしている子にはいないけど、先輩とか面識の無い人のアカウントにもわざわざ出向いては写真を見て回る。おもしろい。可愛い!と思ってもらうこと、いいね!を待っていることが分かる。頭の良くない私でもすぐ分かる。分かりやすさ、っていうのは大事な集客ポイントだと思う。なんでも脳科学の先生もそんなことを言っていた。たぶん。人の自意識を知ったつもりになるのは鬼の首を取ったような優越感があるんだと思う。日々そんなことを意識して自撮り巡りをしているわけではないけど、『奢りたがる人は、相手の上に立ちたいという心理が強いんですよ』『なるほどそうかもなぁ』って納得することがあるように、何か意味が裏づられている行動だということはなんとなく分かっている。私のこのブログもまさに公開★自意識だけど。

 

1日の中で1人以上の他人の考えに触れなきゃ腐るだろうなぁって思って本を読むことにしている。本を出すって仰々しいことだと思っていた。本を出している人はすごいんだぞ。出版サークルの見学に行って、そうでもない事を知った。なんでも、私もそのサークルに入れば本が出せるらしい。書店で並ぶらしい。なんだ世界ってそんなもんかと思う通学タイム。

ただの日記

誰かさんがこのブログをスクショして朗読する意地悪をするからもう更新しないぞ、と思っていたんだけど今日は自由に書こう。

 

インタビュー記事とか講演の質疑応答が割と好きで飽きずに見てられる。講演って自分が普段蓄えてる考えをドヤればいいんだろうけどインタビューや質疑応答って何を聞かれるのか事前に知らされてなかったり、その場での即席受け答えってところがラップバトルみたいでスリリングっすね。私は質疑応答されたら絶対に何も答えられないだろうなぁ、未熟だからなぁ(拗ね)って思っていたんだけど、今日講演に来てたチームラボの代表の方も割と質疑応答苦手系であらあら何だか安心!ぜんぜん聞いてることと答えてること違うやん。でも質問されたことをきっかけにビビビッて脳のいろんな所に触手が伸びたみたいで予定には無かった面白い話をしてくれた。興奮。『死ぬ』って言葉を何回も使う人だった。私にとって『死ぬ』とか『死ね』とかはvery禁句だから新鮮で思わず数えた。多分90分で5回くらい言った。たぶん。

そういえばセカイノオワリがインディーズだった時、バンド好きの友達にCDを聴かされたんだけど、その曲もAメロ開始2秒で『死んだ〜〜♩』って歌詞が出て来てびっくりした。このバンド売れるよ!!!ってなぜか太鼓判押した。『死』なんてマイナスなワードを使いながら小綺麗なことしようとしてるのが驚きなんだと思う。材料がマイナス。…彼らは『死』ってマイナスなワードだと思ってないのか?

 

どうしてラップバトルなんて語が出てきたかというと。

日曜に早稲田の学生ともんじゃを焼いた。彼らの中でラップバトルをyoutubeで見るのが流行ってるらしい。他大に混ざると自分が楽理科だって事実を強くまりもちゃんにリマインドされる。まりもちゃんっていうのはもう一人の私なのだけど。ラップ…?韻…?音楽に言葉を合わせる…?やたら音楽学っぽく考えたくなる。ははあん、今の若者はそういう側面で音楽を嗜んでいるのね。ハイハイ修辞学、修辞学…。てな感じで偉そうにもんじゃをヘラで鉄板に押し付けていた。(ただ口出しはしない)

偉そうな人が多い。大学生って偉そうな人多くないですか?わたし、そんな偉そうな大学生から身を護れる武器をゲットしました。ダールハウスの著作からです…引用します。『自分が完全な真理を所有していると確信し満足している狂信者は、学問的主張の当否をひとえに主張者の心情によってのみ測り、新たな認識へと前進することこそ自分の関心にとって逆に有効かもしれない、という可能性に賭けないのである。』…強くないですか?これをいつでも印籠のように出せるように手帳にもスマホにもメモしておいています。アルソックより強いです。

 

あんまり仲良くない人とごはんに行く、っていうイベントを4日続けてみた。期待しすぎることに悪慣れしたので、断・期待しようというイベント。つかれる。

 

話は飛ぶが、私は自分を客観視している自分が好きである。夢中になっている時こそ客観視したくなるし、客観視できる時間を定期的に持っておきたい。誰も自分を知らない環境にいると客観視できる。無意識にかかったバイアスや自分よがりな『常識』を溶かせる気がして気持ちい、それが出来てる自分偉い!といい気になっている。蓄積が怖い。蓄積を味方につけられる人はいいね。

 

前日の飲酒が祟ってコンタクトレンズを目に入れるやる気が出なかった。裸眼で1日過ごす。裸眼で生活するだけで心もぼやぼやしちゃって歩く速度が遅くなる。輪郭がハッキリしないだけで「今日はダメな日だな〜」と思えてくる。踏切が鳴っても走る気になれないので一本電車を見送る。授業間に合うかな?と思ってスマホで検索。そのままスマホに熱中。読もうと思っていた本を読まずに朝の通学タイムが終わる。今日はダメな日だな〜。

 

気に入った展示があったのでもう一度観たいなと思い飯田橋のギャラリーへ。ラッキーなことに作者さんが在廊していた。ああ来てよかったなぁと思った。それだけで、良い日だと思える。簡単。

 

今日はおしまい。

 

 

音源と距離

 

 

もしも

もしも

音源と耳との距離で音程が変わるのなら

世界はどう変わるか

 

恋人との距離で声のトーンがちがう

バイオリニストは誰めがけて弾くのか

改札にスイカをかざす音がバラバラ

アンサンブルが出来ない

 

音はもっとプライベートなものになって

一対一で意味が変わるものになって

基準や平等性がなくなって

コンサートの座席もややこしくて

 

音程という概念を無くさざるを得ないかもしれない

 

 

そうか

音程という概念があること自体奇跡なんだね!