音楽学から世界をウォッチするブログ

音楽学を学んでいます。音楽に偏りまくった脳みそ、感性で前のめりに世界の勉強をします!マイブームは建築です!よろしくお願いします!

良い予兆

軸をはっきりさせたくて、軸を生にして、装飾や補強や強調や延長やらは必要ないのよと自分に言い聞かせたくて、髪を切ったんですけどね。軽くなったけど、重すぎたかな。

 

愛がわかり始めた、というより言葉を使えるようになって初めて過去を可視化することができるようになって、ああ、あれが愛だったんだなって思えるようになった。それだけなのかなって今日思いました。

 

本質的なことはなにも変わっちゃいないよ。移ろってるのは皆同じ。なんともいえないものが纏わりつく感じ、愛おしい。全てを理解する術を手にしたら、苦労する能力さえ失いそう。

 

間というものを、見えるようになったのが今年の収穫ですかね。

中世という概念について

中世という概念の一般歴史的な使い方にはかなりな程度、問題があるという[]

世界史事典・資料集『Der Große Ploetz』の「ヨーロッパ中世」の項の冒頭では「伝統的な<中世>概念は<古代>と<近代>の存在を前提にしている。両者の間の時代に移行期というレッテルを貼っているのだ。」と述べられている。また、神学者たちは中世をこの世への出現と、最後の審判が頂点に達すべき時代の終焉の中間期として見ている一方で、14世紀、15世紀以降に登場した人文主義的な新しい観念における中世は古代ローマ帝国に人々が新たに繋がりを持とうとした従来の発展の頂点を見るものであった。中世という用語に対するいずれの使い方も、中世は究極のところ(不可避の)「応急概念」だという確信に至るという説もある[]

 

前述したような事柄から「中世」という名称は違和を感じさせ、中世に生きた人々は自分たちの時代のことをなんと呼んだのか甚だ疑問である。例えばアマデウスモーツァルトの神童ぶり故にモーツァルト父はよく知られているが、その関係性に由来する「モーツァルト父」という名称は、仮の呼び方にしかすぎず、正式なものではない。レオポルト・モーツァルトという固有名詞が確かにあり、「モーツァルト父」という呼び名はそれこそ「応急処置」であろう。これと同じく、過去である<古代><近代>という時代概念が完全に揃う、揃わないを関係なしに、中世の正式な名称は当時から存在するはずだ。

 

しかしこの疑問はその答えと引き換えに、そもそもひと続きに流れていく時間を区分したがること自体、学問的行為にすぎないということを明示している。多くの「今」が積み重なり、巨大で複雑な対象となってしまった歴史に対して人間がそれを上手く認識しようとした結果、時代という区切りを設定したにすぎないのであって、これは長い本に章を立てるのと同じ営みである。もちろん実際のところ(歴史的な考察のほか)それぞれの国や共同体で貴族や聖職者が権力の優位を誇示しようとしていた時代、それらの国や政権でそれぞれの区切りがあり、何かしらの名称が存在していた可能性は高い。しかしそれは我々が定義する「中世」の正式名称として認識するのは見当違いである。それは我々が「中世」と呼ぶ一つの区切りと年号をたまたま共有にしているだけで、決して混同してはならないことなのだ。つまり、中世の正式な名称は存在するはずだという仮説は事実と歴史を混合しているが故に起こった愚説であり、学問的、音楽史的考え方とは一線を画すべきものであろう。

 

また、一般的な歴史記述における「中世」と音楽史記述における「中世」では、何を始まりとし、何を頂点とした場合の中間期を「中世」と前提しているかが異なっている。いわゆる一般的な歴史記述における中世は古代と近代の間のことであるが、音楽史における中世は古代とルネサンスの間における時代のことを指す。つまり音楽史記述の歴史的な区分において、一般史による時代区分は芸術文化的概念によって解消される。中世からルネサンスへという音楽史的な時代配列は、その時代のいずれもがそれ自体「新たに」(ということは、互いに対立する内容を持った)音楽独自の内容と結びついている時にのみ使われうる[]と考えると、中世とルネサンスの間には独自の内容が存在し、中世とルネサンスの作品には明確な違いが見られると期待出来る。

 

 

ベルンハルト・モールバッハ著、井本晌二訳、『中世の音楽世界』、東京:法政大学出版局、2012年 []14項[]15項[]17項

 

疑問に感じていたことズバリ答えてくれた本に出会ったので書いてみました。

新しい季節

「神様」を脳内に召喚すれば、子供の頃イメージしたままの雲に乗った仙人のような姿が現れる。なので、私は神様を信じていない、というよりは神様の存在を自分の中に上手く呼び込むことができない。だけど、自分の姿を誰かが見ていて、その誰かがこれからの私の運命や境遇を司っている、という漠然とした、しかし大きな存在は信じている。私はそれを「星廻り」と呼んでいる。

 

最近の「星廻り」は私に次のステップへ進む道を示唆してくれている(気がする)。具体的にはわからないけど、「星廻り」との付き合いは割と長いので、ここは右を選ぶべきとか、今日はやめといたほうが良いな、とかは何となく察知している。

 

「広げたい」より「尖らしたい」という欲が湧いてきて、脳内の住人たちは今までになかった客人に驚いているが、彼を温かく迎えている。どこから来たのかははっきりわからないけど、今まで出会った誰かが呼び込んでくれた縁だろうな。

 

なんか大人しいね、と言われた。緊張しているんだ、と答えた。得意のオートマティスム・デ・タラメに答えただけだけど、なんだかしっくりきた。そうか私は、新しい季節に緊張しているんだ。

世界で一番幸せだった私にはもう会えなくて、昨日より賢くて不幸な自分を操作してAボタンで歩き、Bボタンで走る。

 

世界の色も作り物で、電源を切れば真っ暗になる。そしてなんの匂いもしない。あの甘い匂いもしない真っ暗な場所を歩くなんて死んだ方がましだ 

夜が明けた。

ずっと寝ていたい。

ずっと寝て、寝て、起きたら一回り大きい人間になってたら良いのに。

暴力的な清々しさを求めて夜風に当たっていると、自分が確かにこの身体で長い間生きてきたこと、この脳みそでずっと身体に、運命に、人生に指令を出してきたことを脈拍を感じながら受け入れることができる。きっと、生物的なレベルでなめらかじゃない。身の丈を知れと言ってくれた祖母、「言ってくれた」という言葉選び、ニュアンスに過去の私との違いを感じてほしい。今になって理解しております、身に染みております。いつか死ぬということを忘れつつ、思い出しつつ、面白いことだけを求めて生きている。面白いことだけが生命を感じさせてくれる。荒い息をしていないと生きていることを確かめられない、陸に上げられた魚みたいに。バタバタしていないと死んだ気になってしまう。その気に殺される。静かにしていて生きていける人の余裕を一生知ることが出来ない気がする。泣かないと、何も貰えないと思っている。脱力が出来ないからオクターブが弾けない人です。民主主義とか、分からない。朝鮮民主主義人民共和国とか、書けない。ときめきより、驚きや嘔吐がしたい。下品に振動や衝撃で圧倒して貰わないと、生きてると思えない。おちゃらけていたい。真剣になったら全部悲しい。泥の水をプールから汲んできて、トイレの脇に並べておいた。排泄物をプールの水で流しても、全然効かないんですよ笑っちゃうよね。どこで間違えたのかも分からない。間違えてないかもしれないし。もどって見に行ってみたい。中学生の自分が1番好きだ。わたしの名前オカラだけど卯の花と呼んで欲しい。ルーツを知ることの価値を、全て知ったら実感できるかな。刺身に刺身って名前つけた人、何があったの。今日はそのまま食べてみましたでダメですか。ほんとの苗字がわからない。多分1/4。

脳んが好きすぎるオマージュ

のーんはね!時の流れも変化も恐れたくないの!のーん、人口知能やーだー!

 

 

のーんはね、「この曲全体のまとまりを維持しているものはこの曲がソナタ形式である、という事実である」的な記述が好き!纏まりを求めるのは散漫としたこの世の事象を言葉という網で括りたがるのと同じだね!

 

 

でものーんはね、自分が変化していっても自分は自分の人生しか体験出来ないっていうシガラミがある事をわかってるから、いくらでも変化してやるよ!つまり、しがらみがある事を前提として「私」が成立することが、世界の事象と私を区別するキーだし、だからこそのーんは変化が怖くなんかないの!

 

 

のーん!のーん!のーん!