音楽学から世界をウォッチするブログ

音楽学を学んでいます。音楽に偏りまくった脳みそ、感性で前のめりに世界の勉強をします!マイブームは建築です!よろしくお願いします!

憐れみたまえ

音楽をやる人は、

 

音の存在を信じなくてはいけない。

休符の存在を信じなくてはいけない。

空気の存在を信じなくてはいけない。

 

目に見えないのに。

 

音楽のために、

 

ピアノに向かって、譜面に向かって1日5回の礼拝。

歌う前の昼は断食。

サン・ピエトロ・モーツアルトは何と予言されたか。

フランシスコ・ベートーヴェンの魂は何処へ。

 

音楽の何がそんなに信仰心を煽るのだろう。

 

音楽のメッカとは何処にあるのだろう。

面白がり屋

最近漠然と思うのは、私は「面白がり屋」になるべきなんじゃないかなということです。

 

行きたくない、やりたくない、と口にすることが多いけど、それでも「つまんなかった」といったことは一度もないと思います。楽しかったー!と言って帰ってきます。

 

いつかブログで書きたいなと思い始めたのは、

『おたくの共同体と文化受容』!!!

 

先行研究もありそうなので、勉強したいな。

なぜなら、おたくの共同体って、面白さを発信していると同時に、面白がり方を発信していると思うんですね。面白がり方の上手なファンに影響され、アイドルを好いちゃうファンっていると思うんです。そういう人が、「ブーム」を発生させたり、続けたりすることの隠れたキーマンだったりするのでは...と思っています。

また、音楽学研究や評論も一種の面白がりだと思います。

 

私も、面白がることが得意な気がしてきたので、「面白がり屋」になるべく勉強していくぞー

 

 

 

 

 

 

一年

そういえば8月3日を持ちまして、このブログを始めてから一年が経ちました。いつもありがとうございます。

 

私がJK(笑)の時までに主流だったのはスマホよりガラケーで、好きな人との7往復程のメールのやり取りを眺めて満足しているJKでした。そんな風にSNSが弱小だったので、大学生になってからスマホが普及し、彗星の如く現れたtwitterやらインスタやらで芸能人でもない一般人が自分語りをするという事象にドン引きしておりました。

 

藝術をしているのに読モ()やサロモ()に憧れて、なんの努力の跡もない遺伝の賜物であるルックスをネット社会で晒すことで承認欲求を満たす音大生にも辟易しておりました(せめて自分の分野で満たさんかい)。

また、(「出る杭」ではありませんが)単に承認欲求を叩きたい気持ちもありました。

 

ずっとそういう立場にいたのでブログを立ち上げるなんてことは自分の中でとても抵抗のあることでした。しかし、大好きなお友達から楽理科の人間の「楽器」は頭脳と言葉じゃない?と言われたことがきっかけで、小さな発表会、試演会の代わりに...とこのような自分だけのステージを立ち上げるに至りました。さらに、自分の世界を広げ、ここまで音楽の道を歩んできたことを穏やかな気持ちで肯定させてくれた音楽学の魅力を、実技に特化した人や、娯楽として音楽を嗜んでいらっしゃる人々に伝えたいという、おこがましい野望もありました。

 

音楽学に特化するはずでしたが、藝術家である沢山の友人に影響を受け、自分を見失い、はたまた自分に気づかされ、といった私の生活そのもののように、ぶれぶれの内容となっています。

 

 

これからもぶれぶれだと思います。ぶれぶれなところはぶれません。

でも、文章を書くということ、自分の考えを持つことがこのブログのおかげで習慣になりつつあるので、続けさせていただきたいと思います。

 

今後とも宜しくお願いします。

若気

朝の支度が変わったら毎日がちょっとずつ変わってきた。私の中の情けない部分やダメな部分なんて何一つ解決しちゃいないけど、ペダルの入れかたを少し変えたバッハのフーガみたいにまあまあ良く聴こえる。

こんな私だけど、これ以上でも以下でもなくても、この街に生きてて良いのかもしれない。なんて自分で言ったら図々しいのかもしれないけど、もう、笑っちゃうくらい、どうしようもないんだもの。どうにももがいたって、一番自然で正直に生きて行くにはこうやってダラダラぶどう味のお菓子を噛んでいる時間が必要なんだ。そうそう、なぜか不思議と今になって君のことがわかるよ。ああ、そういえば、夏になると内側の髪を刈り上げちゃう女の子の気持ちもわかる。

ダヴィンチはなんでもできるけど、何にでも才能があったというよりは、何か一つを極めようとした道に『何でも』が転がっていたんだと思う。私もそう思う。だからもう何もいらない。今知らないもの、誰かに全部あげるよ、任せるよ。私はこれ以上でも以下でもない。そう胸を張る準備が、整いつつあるんだ。

no title no problem

夢から覚めた時、目の前は何も変わっていないみたいだった。遠のいていった天井の柄はそのままだし、白いボタンのパジャマもそのままだし。でもやっぱり一つ変わっているものがある。時計の針は痛いね。

 

夢の中での私は何でもできる、というよりは、何でもない。目を閉じていて視界は真っ暗ではあるが、光も刺さないので闇とは呼ばない。無。他人もいなければ私もいない。表現もしなければ、迷惑もかけない。

 

そこに、ふわっといい匂いみたいに、物語が舞い降りてきて、私はそこで花を摘んでいたり、見たこともない渓谷を臨んでいたりする。私が見たくてデッキにセットした内容でもない。気まぐれに適当なタイトルの夢が舞い降りてくる。見せられる。魅せられる。みるみる。

 

はて

 

つづく。

と記したら、期待するでしょう。ハッタリも期待も無い世界だとは思わないでしょう。どちらか存在してしまうと思ってしまう。時計の針は痛いね。

 

 

美術館

認めたくない侘しさを

認めざるを得なくなる気がして

あそこには行きたくなかった

 

おめでたい期待と妄想を維持する

最後の柱を守るため

あそこには行きたくなかった

 

あの真空パックされた

あの清潔で音もなく

迷い込んだり、抜け出したり

自由でデタラメな振る舞いの出来ない

白い白い廊下

 

あした、初めて一人で歩く

 

長い長い廊下を

足音でノックしながら どう歩こう

 

ノックをしても応答は得られず

ふと足音を止めた時

何もかもが止んで

私は一人なんだと知ったとき

その顔を誰に見せれば良い

 

種を蒔く春の精を

澄んだ心で見つめられるだろうか

 

したり顔した三日月の

にじんだ色彩に涙できるだろうか

 

あした、

たった一人で美術館に行く

 

 

 

 

 

つまり私たちの学科は

 

 

確かさを求めた末に

不確かさを受け入ることが出来る何か

を手に入れる

 

のかしら2017.7.22